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日本語における内と外
内と外をなぜ、強く区別するか?
西欧人は内と外をそれほど、きびしく区別しない。言わば実線ではなくて点線で区別する。個が強いので、内の者でさえ、容易に他人の個の中に踏み込めない。したがって、外と内をそれほど明確に分ける必要がなく、その境界は、点線で隔てられているに過ぎない。
日本人は個が弱い。個は実線ではなく、点線で囲まれた存在だ。容易に内の者は他人の個の中に入り込める。家族の者、クラブの仲間、会社の仲間などは、驚くほど仲間の△△△△△△を知っている。外の者が、個に入り込むのを防ぐには、内を実線で強固に固めるしかない。こうして日本人は、外に対して内を強く防壁で固めるようになった。
「こんにちは」「こんばんは」は、□向けの言葉 家族
「こんにちは」「こんばんは」は、他人(out-group)に使う挨拶、 □ 向けの言葉である。自分と同じ集団に属している人(家族の間や職場の人=in-group)には使わない傾向にある。特に家族には使わない。
たとえば、日曜日に寝坊して、昼の1時に起きた時、父や母になんと挨拶するか?「こんにちは」とはいわない。「ああ、よく寝た!」とか「今、何時(実は知っている)?」とかの他の語句を用いる。
「こんにちは」「こんばんは」は、それほど丁寧な言葉でない
「こんにちは」「こんばんは」は、客が店員にいうことはできるが、丁寧な印象を与えないので、店員は客に言えない。「△△△△△△△△」などと言う。「おはようございます」はいえる。
「こんにちは」「こんばんは」のかわりに、目上の人には「いい天気ですね」「暑いですね」などのような天候やその他の話題を挨拶がわりに用いることが多い。
夜の「おはようございます」は、内意識の醸成のため
「おはようございます」は、他人にも家族にも用いることができる。また「こんにちは」「こんばんは」ほどぶっきらぼうな感じを与えないので、目上にも用いることができる。
芸能人やマスコミ関係者が夜出会っても、「おはようございます」と挨拶しあうのは、内意識を作り出すためもあろう。「こんばんは」だと他人に使う言葉であるので、ぶっきらぼうで、□□行儀に聞こえる。
このように、日本語には、話す相手が身内(in-group)か他人(out-group)かによって、また、相手が自分より上か下かによって、言葉を使い分ける度合いが西欧語に比べてはるかに強い。日本語が人間関係語だといわれる所以である。
さようなら
「さようなら」も、中立的な(=誰にでも使える)言葉でなく、人間関係により使い分けられる。「さようなら」は、「こんにちは」、「こんばんは」と同様、家族の間やその他のin-groupでは、用いない。もし、用いたら、二度と会わないことを意味する。たとえば、娘が父に「お父さん、さようなら」といったら、それは家出(や自殺)か結婚で家を出ていくかといったような、重大な意味を暗示する。「お父さん、さようなら。お世話になりました」といったら、決定的である。
職場では、「さようなら」の代わりに、上司には「失礼します」、同僚、目下には「お先に」を使う。それに対して、上司からは「△□□△△」、同僚、目下からは「お疲れ様でした」「ご苦労さまでした」「お気を付けて」などの言葉が帰ってくる。
このように、「さようなら」は、①in-groupに用いてはならない、②目上に用いてはならない、のである。「こんにちは」、「こんばん」も、「さようなら」ほど強くはないが、同様の規則を有する。
日本語辞典の作成を
「さようなら」、「こんにちは」、「こんばんは」は、身内同士では使わないのは、日本人には自明のことである。また、目上の者にも避ける傾向にある。
しかし、これらのこういった使用法について説明した辞典はまだない。日本にあるのは、日本人用の国語辞典であり、外国人も対象とした日本語辞典はまだない。日本語辞典の作成は日本語の国際化のために、急務であろう。たとえば、「あなた」の項には、①できるだけ使わない。②とくに、目上には決して使わない、などの注意が必要であろう。
「国語」と「日本語」
English (英語)は、日本人が習おうと、アメリカ人が習おうとEnglish (英語)である。しかし、「国語」は日本人が習うもので、「日本語」は外国人が習うものである。このように、日本では、同じ日本語を習っても、習う者が内の者である日本人か外の者である外国人かによって、「国語」と「日本語」というふうに語彙を使い分けている。
漢字圏では、このような使い分けをする傾向にあるようだ。中国では、「語文」と「中国語」、台湾では「国語」と「華語」、韓国では「国語」と「韓国語」という風に、区別している。
氏名のカタカナ書き
日本語を習う西洋人などにとって、不愉快なことの一つは自分の姓名をカタカナで記さねばならないことである。せっかくひらがなや漢字を習っても、自分の名前は素っ気ないカタカナで記さねばならないのだ。氏名の書き方においても、日本語は内と外の区別を厳然としている。
なお、漢字で氏名を記す中国人、韓国人は、日本人にとって、外国人ではなく、半日本人である。西洋人に対してのようなお客様扱いをしないのも、文化や歴史を共有する他に、このこともあずかっているであろう。
「いってらっしゃい」
家を出るときは、家族に対して「行ってまいります」という。「さようなら」と言ってはならない。家に残るほうは「行ってらっしゃい」と言う。家に帰った時には「ただいま」と言い、家族は「お帰りなさい」と迎える。日本語では、これらは決まった挨拶である。この挨拶は、職場や近所に住んでいる人など同一集団に属していると考えられる場合に行われる。
「いただきます」「ごちそうさま」と同様、「行ってまいります」「行ってらっしゃい」、「ただいま」「お帰りなさい」は、日本語特有の決まり文句(set phrase)で、他の言語にはあまり見られない現象である。このような決まり文句があるのは、日本が□□△社会であり、人と同じことをしていると安心できる社会であるからであろう。日本人が英語などの挨拶が下手なのも、決まり文句しかふだんから使っていないからであろう。
「ああ、あれですか」
「あれ」は、物理的に話し手からも聞き手からも遠いものを指す他に、話し手と聞き手が□□する話題について話すときに用いられる。「あれ」は、話し手と聞き手の□□する知識の量に比例して、多く用いられる内社会(同僚や家族の間)用の言葉だ。たとえば、結婚生活の長い夫婦は、「あれ、もってきて」「あれにしよう」などと言って、「あれ」を多発してもお互いに了解しあう。
また、「先週マレーシアへ行ってきたよ」というせりふに対し、マレーシアへ行ったことがあれば、「あそこは、果物がおいしくて、安いでしょう」と「あそこ」を使い、行ったことがなければ、「そこは、なにがおいしいですか」と「そこ」を使う。
このように、日本語では「あれ」と「それ」のような代名詞にも、内と外の区別をする働きをもたせている。
「先日はごちそうさまでした」
日本人は前回受けた好意に、礼をのべる習慣がある。これは、自分が相手と同じ経験を共有したことを□□する儀式で、内意識・仲間意識を醸成するのに役立つ。日本人が食事を共にすることを大事に思う背景には、経験の共有による内意識の醸成ということがある。たとえ、好意を受けなくても、前回の出会いに対しては、「先日は失礼しました」と挨拶したほうがよい。
なぜ同じものを注文する?
初めてのデートで食事を共にするときは、相手に合わせて同じものを注文した方がよい。
違うものを食べるより、同じものを食べたことのほうが、内意識が強く働くからである。デートも回を重ね、次第に他のことでも共通項が多くなるにつれ、相手と違うことをやり始めるのがよい。レストランで家族が別々のものを注文するのは、おたがいがすでに気心がわかっているからである。
プレゼントをなぜその場であけないの?
日本人が、プレゼントをもらった場合、その場ですぐあけないのは、あとでお礼を言う習慣があるからである。あとから、そのことに言及したほうが、人間関係をさらに深めることができるのだ
このように、日本人が論理よりも人間関係をいかに大事にするかは、言葉の上からも実証することができる。日本社会が人間関係社会であるといわれる所以である。
他人なのに「お姉さん!」
自分の家族でない人を指すときにも、「おじいさん」「おばあさん」「おじさん」「おばさん」「おにいさん」「おねえさん」などの親族名称(kinship term)を用いることがある。親族名称を用いると、親しみやなれなれしさを表し、仲間意識を作り出すのに役立つ。
レストランなどで働く若い女性を「お姉さん」と呼ぶのはこのためである。あまりにもなれなれしく感じて、これを好まない女性も多い。(自分より年下の他人に「お姉さん=Elder sister!」と呼ぶ場面が小説などに出てきたら、外国人の日本語学習者はこの場面をただちに理解できるであろうか。また母親が子供に、「おにいちゃん(Big brother)!」と日本では呼び掛けるのはごく普通である。このような場面における人間関係を説明した日本語辞典の作成が望まれる。)
なぜスナックの「ママ」なの?
スナックの女主人を「ママ」とよぶのは、ママとよぶことによって、□□家族関係をつくり、一日のきびしい勤務から解放されて、母親に対するように甘えたいからであろう。スナックの男主人は「パパ」とよばれず「マスター」とよばれる。客には男性が多いからであろう。
妙齢の女性が他人を「パパ」とよんだ場合は、いわゆる二号の関係にあることを示唆しているといえよう。
国会議員をなぜ「おじさん」といってはいけないの?
議員、医者、弁護士、教師など人の尊敬を受ける職業の人には、このような家族名称は用いないで、「先生」という敬称を用いる。親族名称はあまりにも△△△△しく感じられて、尊敬の念が薄いからである。
駅のアナウンスは「お忘れ物のないように」などと、なぜばか親切なの?
日本人は、自分の集団に属する者に対しては、できるだけの親切と配慮をすべきであると考える。駅員が、乗客に対して、「お忘れ物のないように」「足元にご注意ください」「ゆれますからご注意願います」「白線の内までお下がりください」などと、いらだつほどばか親切なのは、乗客が一時的にせよ、客、つまり内の人間であるからである。
なお、「白線の内まで」は英語になおせば、behind the white lineである。しかし日本語では、「うしろ」ではなくて「内」である。ここでも日本人が内をたいせつにしていることがわかる。
お客さんとは一時的な内の人間
「お客さん」は一時的な内の人間であり、通常は親切かつ寛大な扱いを受ける。飛行機の乗客は、日本人スチュワデス(flight attendant)から、最上のもてなしをうけることを期待する。なぜならば自分は最上の「お客様」であるからである。
ところが、アメリカでは、passengerはguestではない。それゆえ特別の扱いはされない。どちらかといえば、flight attendantの方が地位が上で、彼女らが先生やお巡りさんのようにpassengerを指図したり、注意を与えたりする。passengerはflight attendantにお世辞を言ったり、降りる際には自分のほうから"Thank you. It was a good flight."とお礼を言ったりする。なお、passengerには「□□まとい(つまり、邪魔者)」の意味がある。
アメリカへ行って、日本人が不愉快に感じる原因の一つは、店員からお客様扱いされないからである。アメリカ以外でも、売る方が地位が高い場合が多い。
日本では、「士農工商」の名残があるからであろうか、たとえばダイエーやイトーヨ-カドーの社長が買い物客にぺこぺこ頭を下げても、不思議がられないが、中国や韓国、欧米では、このような光景は見られない。
お客様は、よその家の冷蔵庫をあけたらだめ
お客様は、一時的には内の人間であり、上座をあてがわれ、大切にされる。しかし、本質的には内の人間ではないので、よその家の冷蔵庫をあけたり、食後の後片付けをしたりすることは期待されない。日本で冷蔵庫をあけたり、食後の後片付けをしたりするのは、親戚か身内同然の人で、そこまでいくと、お客様でなくなる。
しかし、アメリカでは、ホームステイの学生はかなり気軽によその家の冷蔵庫をあける。また、△△△△△△を期待される。日本人のホームステイの学生が、なにも要求せずなにも手伝わず、あとで不評をかったりすることがあるのはお客様意識でいくからであろう。アメリカではホストファミリーは、ホームステイの学生が家族の一員として、インフォーマルにふるまうことを期待する。
西洋人はお客様
日本では、西洋人は、お客さんとして特別扱いを受ける。まるでカタカナのようである。特別扱いをされなくなれば、その集団の一員となる訳であるが、そのためには長い期間を要する。
おトイレ
カタカナ外来語には、「お」をつけない。「おテレビ」「おブランディー」といわないのは、これらがカタカナ外来語であって、正規の日本語でないからである。カタカナ外来語が日本語の仲間として扱われるためには、実にに長い期間を要する。「おトイレ」「おタバコ」「おビール」などは、長い長い期間をへて、やっと「お」をつけることを許されたのである。(「おトイレ」を外来語とは知らない幼児は、「音入れ」と解釈したりする)。
このように、日本語では、内の仲間にいれてもらうためには、長期間を要する。カタカナは日本語の□□性の一例証である。
たとえ、「お」をつけることが許されても、カタカナである限り、あくまでも正規の日本語としては扱ってもらえない。「タバコ」が「煙草」あるいは「たばこ」と書かれるには、実に何百年も要した。西洋人が、何十年住んでいようと、外国人扱いされるのは、名前がカタカナということもある。中国人、韓国・朝鮮人が、当初から特別扱いされないのは、文化、顔形の類似性の他に、名前が漢字であることにも一因がある。
「社長はおりません」
日本人は自己を集団と□□化する。したがって、会社の受付けの女性は、訪問客(他の集団を代表するひと)に向かって話す時は、社長などの上司についても、敬語ではなくて、自分のことを話すときと同じように、謙譲語を用いる。つまり、「社長さん」という敬語ではなく「社長」、「いらっしゃいません」という敬語ではなく「おりません」という自分を卑しめる謙譲語を用いる。韓国などでは、日本ほど自己を集団と一体化しないので、このような場合、すべて敬語を使って「社長さんはいらっしゃいません」という。
家庭で子供がよその人に対して、「お父さんはいません」と言ったりすると、「父はいません」といいなさいと、たしなめられるのは、「お父さん」が敬語であるので、内の人同士の言葉であるからである。外の人に対しては、父と自分を一体化して、「お父さん」と「さん」付けにするのではなくて、「父」と呼び付けにするのが正しいとされる。このように、日本では、小さいうちから、相手が内のひとか外の人かを区別し、それに応じた言葉を用いるように訓練なされる。
「失礼しました」と「ごめんなさい」
「ごめんなさい」は、親しい間、内々の間で用いられる。成人においては、親しい場合でも目上に用いないのが普通である。 改まった場合や他人には、「失礼しました」が用いられる。
「すみません」は、「ごめんなさい」と「失礼しました」の中間にあたり、内にも外にも用いられる。
これら三者の区別は、若い人の間では、次第にゆるやかになっていくようである。
「かど」と「すみ」=corner
「かど」と「すみ」は、共にcornerで表されるが、「かど」とは、cornerを外から見た時に、「すみ」は内側から見たときに用いる。
「しょうべん」と「おしっこ」
「しょうべん」を野外での用足しに、「おしっこ」を屋内での用足しにと使い分けている子供がいる。そう言えば、「立ちしょうべん」とはいうが、「立ちおしっこ」とはいわない)。また「うんこ」を野原でするときは、「野ぐそ」と別の言葉を使う。
cf.「めし」と「食事」、「みっちゃん」と「みちこさん」、「ビール」と「おビール」、「お父さん」と「父」、「今日(大和言葉)」と「本日(漢語)」
「行く?」と「行きますか?」
Do you go?は、日本語では、①「行く?」あるいは②「行きますか?」と訳される。①の場合には、相手が内の者であることがわかる。②の場合には、相手は外のものである。 「行く?」は、外の目下の者(たとえば、よそのこども)にも使うが、これは相手を内の者扱いしているわけである。「行きますか?」は、内の目上の者(たとえば、職場の上司)にも使うが、これは相手をお客様(外の人であるような内の人)扱いすることによって、敬意を表している訳である。
このように、日本語では、相手が、内の者か外の者か、また目上か目下かによって、言葉使いを変えるのを特色とする。逆に、言えば、日本人は人とあったら、まず相手が内の者か外の者かを瞬時に判断することを日々訓練させられているわけである。日本語が□□□□語だといわれる所以である。
よそ
「よそ」とは、自分の集団とは関係のないことを強く意識した言葉である。「よそ者」とは、単なる他人ではなくて、自分の集団とは関係のない他人である。「よそいき」を着ると、心がときめくのは、自分の集団とは関係のない他人のところへいくからであろう。「あいつ近頃、よそよそしいな」と言った場合には、あいつが、こちらのではなく、よその集団に属しているかのように振る舞っていることを非難しているのである。
日本人は、内での行動と外での行動を大きく使い分けすぎるようである。「旅の恥はかきすて」という言葉がそれをよく表している。電車の中で、知り合いには、にこにこと席を譲ったり荷物をもって上げたりするが、赤の他人は無視したり、敵意をあらわにする。また、自分の家の回りはきれいにするが、よそでは知らんぷりである。