Bài tập đọc hiểu tiếng Nhật trình độ N1 - 悲鳴を上げる身体

penguin20110

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視覚、聴覚、触覚、あるいは味覚や嗅覚、こういう感覚群を思い浮かべてみると、眼は閉じてさえいなければ見え、耳は塞いでいなければ聞こえ、手は何かに接触さえしていれば触覚があるというふうに、感覚は人間の( (1) )な条件に規定されてはいても、社会的・文化的な条件に規定されているようにはみえない。

しかし、果たしてそうだろうか。例えば、世界をあるがままに見よ、あるがままに聴け、という要求を前にして、私たちは呆然とせざるをえないのではないだろうか。自然な知覚、あるがままの感覚などというものがほんとうにあるのだろうか。何かを見れば何かが背景に退き、何かを聴けば別の何かが聞こえなくなる。こういう現象はしばしば感覚の志向性というふうに呼ばれたりもするが、実際、何を優先的に知覚するかということは、単純に生理的な条件で決まるものではなく、むしろ文化的な感受性や対象理解の言語的・概念的な構造によって深く規定されている。私たちの身体的生存は制度的な技法に深く規定されているように思われる。(2)感覚と意味が、ともに「センス」と呼ばれることには、それなりの意味が隠されているのであろう
(鷲田清一「悲鳴を上げる身体」より)​
問1 ( (1) )にはどの語が入るか。
1 制度的
2 生理的
3 空間的
4 時間的
問2 (2)「感覚と意味が、ともに「センス」と呼ばれることには、それなりの意味が隠されているのであろう」とあるが、どのような意味が隠されているのか。
1 感覚は独立していて、社会的・文化的な条件に規定されていないこと。
2 私たちの感覚が、身体が置かれた条件に深く規定されていること。
3 自然な知覚、あるがままの感覚というのは、もともと存在し得ないこと。
4 感覚は特定の文化や社会における世界の解釈法や意味と不可分であること。
 
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